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さよひめ戦記535 001 [小説2]

001

風が舞っていた。
イスルギのスガルは小船の上に寝そべっている。
船には帆もなく、漕棹(オール)が一本あるばかりだった。
その漕棹も仰向けになったスガルの傍らに横たわっている。
船は粗末な造りで刳舟(カヌー)の一種である。
しかし、唐津の湊(カラツのミナト)から湾の内側での漁に出るためには
充分な舟である。
スガルはマツラの国の達者な泳ぎ手である。
一日でも泳ぐことができたし、日が蔭るほどの深さまで潜ることもできる。
船はただ獲れた魚を運ぶためのものだった。
いつものように朝から漁に出たので獲物は充分だった。
船にくくりつけられた編籠は魚貝で一杯である。
周囲にはサメの気配もない。
春の日差しはうららかだ。
スガルは銛を抱いて一休みしているのだ。
そうしながら獲物のことをぼんやりと考えていた。
「いいヒラメがとれた。うまいヒラメだ。
ヒメはヒラメが好きだからな。きっとよろこんで
笑うだろう・・・」

・・・獲物から連想したヒメの顔が浮かぶ。
スガルはたまにそうやって考えることが好きだった。
ヒメとヒラメ。言葉が似ていると気がつくと
思わず笑いがこぼれる。
「おかしいな。ヒメとヒラメ。今まで気がつかなかった。
ヒメの好きなヒラメ。ヒラメを食べるヒメ・・・」
・・・しばらくその連想を楽しんだスガルは浜へ戻ることにした。
昼餉にサヨヒメにヒラメをふるまうことに決めたのだ。
「ヒメは喜ぶだろう」
スガルはその考えに急かされるように漕棹をふるい、船を浜へと向かわせた。
海を渡る風を感じながらスガルはふと幼い日々のことを考える。
・・・あれは春ではなかった。夏だ。夏という季節を初めて知ったあの時。
照りつける日輪の輝きも、海辺の水の塩辛さもその夏から生まれた。
それはただひたすらに愛しく好ましいものとしての心に染み込んでいる。
かけがえのない素晴らしいものがこの世にやってきた記憶と一体になり、一層、あでやかにイメージされた夏。
それは今思えば、スガルが生まれて五度目の夏のことだった。
スガルはもうすぐ十九になるのでそれは遥かな昔の出来事だったが、まるで昨日のことのように鮮明な記憶がある。
夏が来る度にスガルがそれを思い出し、くりかえし、くりかえし胸に蘇らせたためであろう。
それほどにその日の出来事は愛しく大切な思い出であった。

長く家を留守にしていた石動の長(イスルギのおさ)が帰ってきた日。
       
見知らぬ幼い姫皇子(ひめみこ)を連れて来た日。
その姫皇子の名を小夜(サヨ)と教えられた日。
そしてサヨヒメのあどけない笑顔。

追憶をたどることに夢中になったスガルは背後の海原に船団の影が見え始めたことにはまったく気がつかなかった。

つづく

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